遠州大念仏の由来
遠州地方夏の風物詩として知られている遠州大念仏は、浜松市を中心に盆(7月あるいは8月)の3日間に行われる郷土芸能です。
遠州大念仏の起源については種々の説があって定かではありませんが、遠州大念仏については郷土雑誌「土のいろ」【飯尾哲爾編 ひくまの出版】の「特集・遠州大念仏」に詳しく紹介されています。
通説としては徳川家康75年の生涯の中で、唯一の負け戦として史上有名な「三方原合戦」にさかのぼります。
「三方原合戦」
元亀3年(1572年)12月22日の申(さる)の刻といいますから、現在の2月4日の午後4時から5時ごろのこと。
京を目指す武田信玄の軍勢約25,000人と、織田信長からの援軍約3,000人を加えたおよそ11,000人の徳川家康の軍勢が、暮れなずむ三方原の台地で、両軍の死力を尽くした攻防戦の幕が切って落とされました。
戦いは、大久保彦左衛門(大久保忠教)が著した「三河物語」に
『信玄は、まず、郷人原を出させ給ひて、礫うたせ給う…』と書かれているように、信玄が郷人原、つまり最前線にいた兵に石を投げさせたことが合図だったようです。
数に劣る家康勢でしたが、石川数正らの奮闘によって一進一退の攻防戦が繰り広げられました。しかし、武田勝頼隊が押し出してくると、家康勢はついに崩れ始めたのです。
「三河物語」に『家康は、まん丸に成りて除かせ給ふ』とありますように、家臣たちが家康を真ん中にして一団となって浜松城に逃げ帰ったようです。
それでも、武田勢の追撃の手は緩むことがなかったため、
「われこそは家康なり」といって家康の身代わりとなり討ち死にした夏目吉信など、多くの家臣たちの壮絶な闘いによって、家康の命は守られたのです。
時に家康弱冠31歳。百戦錬磨の武田信玄を相手に刀折れ矢尽きた戦いでした。
「犀ヶ崖の奇襲」
三方原合戦は家康の大敗に終わり、夕やみの中を徳川勢は次々に浜松城に逃げ込みました。このとき家康は、城の城門を全部開かせ、かがり火をたいて城を照らし出すよう命じたのです。しかも、酒井忠次が天守台にあがり大太鼓を乱打していたのです。追撃してきた武田勢はこの様子をみて、
「さては奇略がめぐらされているのでは…」と城内に攻め込むのをやめ、犀ヶ崖付近で一部の兵士を集めて夜営をすることになりました。
徳川軍は、反撃に転じるために一計を案じました。
犀ヶ崖に武田軍を追い落とそうと、崖に白い布の橋を張り、丈夫な橋が架かっているように見せかけたのです。更に油断させるために浜松城の近くにある普済寺に自ら火を放って、浜松城炎上と見せかけておいて、武田の陣営の背後から鉄砲を撃ち込み、織田信長の援軍が来たと思いこませ、武田軍を谷底へ追い落とし損害を与えました。
「犀ヶ崖のたたり」
前記した「土のいろ」に掲載されている『旅籠町平右衛門記録』・『遠江国風土記伝』・『遠江古跡図絵』・『松平西福寺縁起』等には、
「天正2年5月、しとしとと降り続く雨の夜、犀ヶ崖において刃の音や鬨の声・わめき叫ぶ声が現出し、目を背けたくなるほどのむごたらしさが満ちあふれ、その、悲しい有様は耳や目を覆いたくなるほどであった。
また、崖の付近を行き来する人たちが、しばしば『かまいたち』の難にあい、近辺の村々には『いなご』の大軍が発生して農作物を食い荒らし、さらには流行病が蔓延して、戸毎に病人が続出するようになり、世の中では犀ヶ崖の戦死者の祟りではないかという流言乱れ飛び、領民は不穏で落ち着かず、この一大恐慌に恐れおののき大騒ぎとなった。」
「怨霊済度災厄消滅」
「城主家康は、この騒ぎのいわれを聞き哀れみ、深く心を痛め、貞誉了傳に怨霊済度災厄消滅の修法を懇請する。
了傳は、犀ヶ崖に青雲庵という庵をつくり、数多の道俗集めて大施餓鬼を行い、7日7夜の別時念仏をとなえ、6万枚の名号を書いて谷間に納めたところ、満願の暁に至り祈願がかなえられ、亡魂得脱して鎮まり、疫病や害虫も次第に平癒消滅し、領民は、ようやく安堵して平静に戻った。
家康は、この趣を聞き、御感浅からず了傳の徳を称賛して、葵御紋付の九条の袈裟及び寺領300石を与える。
しかし、了傳は袈裟は裟門の重品として拝受したが、寺領は却って後世を誤るおそれがあるとして固辞した。
家康は益々了傳の清廉な気性に感動し、三州以来の随身の功及びこの度の怨霊済度は、武門の戦功にも勝るといって、特に松平の称号を与え法力の功を永世に伝えよと、領民に毎年7月13日から15日まで怠りなく大念仏を行うように布告した。
それから後、了傳の教えに従い、各村競って大念仏を行い、国家安寧・武運長久・五穀豊穣の祈願のためや在家精霊回向にも用いられ、青雲庵において虫除けの札を与えるようになり、農民の信仰は益々深く隆昌を極め、その盛んな時には200余町が犀ヶ崖に集まって、五穀豊穣を祈願したということで、この仏の教えを信受する喜びに、農民は有難くて涙があふれ出たという。
天正14年了傳は、駿河に移ることになり、法徒宗圓がこれを継ぎ、青雲庵に住み、専ら大念仏の普及に勤め、農民に親炙した。」とあります。
遠州大念仏保存会
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